星とタンポポ
青いお空のそこ深く 海の小石のそのように
夜がくるまで沈んでる 昼のお星は目に見えぬ
見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ
散ってすがれたタンポポの 川原のすきにだぁまって
春のくるまで隠れてる 強いその根は目に見えぬ
見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ
金子みすゞ
金子みすゞの「星とタンポポ」という私の好きな詩です。
「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」というフレーズが浮かび、まさにこの通りという出来事に出会いました。
平成18年11月19日(日)の未明。この日は、内観自己発見まつり「自分と出会う津軽の集い ~今、命輝く人とのつながり~」にスタッフとして参加し、弘前市の西に位置する秀麗岩木山の麓にあるホテルに宿泊していた日です。
同室のお二人(母娘)がお風呂にいかれました。暗かったので何時か分かりませんが、私も目が覚めてしまい、起き出して、窓の障子を開けました。東に面した窓の向こうに、細いけれど、それはそれはきれいなお月様が見えました。
そのお月様を見た瞬間、『あっ、主人だ!』と、強く思いました。
平成17年11月24日、元気だった主人が突然亡くなりました。仕事から帰ってきて、いつも通りに床につき、そして私が気がついた時には意識がなく、亡くなってしまったのです。
主人の「死」をどう受けとめればいいのか、さまざまな思いがとめどなく湧いてきます。どうしてあなたで、どうして私なの。何をしたからこのようなことになって、何をしなかったからこのようなことになったの。まだまだ一緒の時間、空間を共有したかったのに、あなたはどこに、どうしているの。……毎日、毎日。繰り返し、繰り返し。答えのみつからぬまま、むなしい思いをだいたまま。
主人に最初にあえたのは、集中内観の時でした。娘の不登校がきっかけで「内観」と出会い、平成17年のクリスマスから年末にかけて、大和内観研修所の真栄城先生のもとで、娘と二人、集中内観を体験しました。その時、夢の中で主人にあったのです。娘のために受けたつもりの集中内観でしたが、実は私自身のためでした。生い立ちを書いて自分の今までを振り返り、母、父、主人に対して、調べていく作業と時間が私にとって必要なことだったのです。その後も時々、夢で主人とあうことはありましたが、もっともっと主人を感じたいと思っていました。
自己発見まつり「自分と出会う津軽の集い」開催に向けて、竹中先生や他のスタッフの方々といろいろ準備を進めていた時は、主人の一周忌も近くその準備も同時に進めていた時でもありました。そして、「自分と出会う津軽の集い」の二日目が11月19日だったのです。
私が見たお月様、それは東の山の端に細く輝いていました。今まで見たことの無いお月様でした。でも、「主人だ!」との思いをとても強くし、うれしくてずっと見ていました。そのうちにお風呂からお母様がかえってきました。窓にお月様を見て、びっくりしていました。そして二人でしばらく見ていました。だんだん周りが明るくなってきても見えていました。娘さんが帰ってきました。見たこともないお月様が出ていて、今まで見ていたこと、今もまだ見えていることを話し、月のある方を見てもらいました。「見えない」と言うのです。私たちにははっきりと見えているのに。明るくなった空を見た人には、その細いお月様は見えないのだと分かりました。
しばらくして、神々しい朝日が昇ってきました。そして、だんだん私の目にもお月様は見えなくなりました。
「見えぬけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ。」まさにこの通りだと思いました。主人は、いつもいつも私を見てくれているのだと実感しました。
あとで月について調べてみたら、11月19日のお月様は、「月齢28日」、月の形は「糸のように細い」、月の見える時刻の目安は「日の出の直前」、見える方向の目安は「東の地平線近く」ということが分かりました。そして、その月が見えるためにはいろいろな条件がまさにぴったり合っていなければならなかったということも分かりました。まず、天気。11月19日、天気予報では雪。この時期、しかも、山の麓となれば吹雪いてもおかしくないのですが、雲一つ無い穏やかな晴天でした。次に場所。宿泊していたのは、東の窓から、近くに津軽の山並み、遠くに八甲田の山も眺望できるホテルでした。そして時刻。同室のお二人がお風呂にいったからこそ目覚めることのできた時刻。これらの条件が全て重なって、出会えたお月様だったのです。 ひろさき親子内観研修所の竹中先生が、「内観するとご主人に会えますよ」とおっしゃったお言葉を思い出します。内観に関わった二回、主人に出会えました。
最近「千の風になって」の詩、曲を知りました。大切な人を亡くしたとき…悲しみをこえて生きる勇気を与えてくれる。`いのちの歌´とありました。
「大切な人を亡くした人が、亡くなった人を思い、亡くなった人を感じたいと思っている。そして大切な人は、風、光、星や雪になって共にいる。」ということが分かりました。主人が亡くなってからの私は自分のことしか見ていませんでした。小さな心で、今の状態を悲しんだり、恨んだり、私だけが悲しくて、私だけが不幸せだとも思っていました。でも、私だけではなく多くの人が大切な人を亡くしているということに、初めて思い至りました。そして、詩にあるように私の主人も、月になり、星になり、風になり、光になっていつもいつも私と共にあることを確信しました。
私が、今こうしていられることに感謝します。