母校の佐敷中学校が創立五〇周年を迎えるというので記念誌への寄稿依頼があった。
そこで、執筆に先立って、内観で教わったように、書斎で閉じ籠もって過ぎ去った時を思い出すことから始めてみた。すると、最初に浮かんだのはふるさとの山であった。
校歌にも歌われているように、「宿名山」は佐敷村〈現在は佐敷町〉のシンボルであった。
それはしかし、山とは書くが「ヤマ」と呼ぶにはいささかの抵抗を感じていたのであろう、村人は「ムイ(森)」と呼んで親しんでいた。
当時の村民にすれば、眼下に広がる中城湾に母なるもののイメージを託し、スクナムイには雄大さにこそ欠けてはいたが、父性のイメージがしっかりと投影されていた。
私がそのことを強く感じるようになったのはふるさとを離れてからのことであった。
旅立ち
大学進学のため本土へ旅立つ日、親兄弟はもとより、親戚縁者が打ち揃って那覇の港に見送ってくれた。前の日まで友人たちと賑やかに過ごしていて、寂しさなんて微塵も感じていなかっただけに、船出を待つ間の紙テープと出航の汽笛とドラの音に、胸に込み上げてくるものを感じて、それを抑えるのに必死になったのが、今ではなつかしい。そのとき、傍らの集団就職の少年の眼は真っ赤に腫れ上がっていた。
飛行機と違って、船には郷愁という物寂しさが同乗してくる。そんなわけで、若者はしばしばホームシックに取り憑かれた。旅立ちは、未来に目を向ければ輝かしいが、過去との関係をおろそかにするとき、無気力や虚無に襲われてしまうことになる。
ふるさとの山と癒し
A君は中学校で机を並べた同級生である。
彼はあこがれていた東京の大学に合格し、誰の見送りも受けず、意気揚々と旅立つ姿は先の集団就職の少年とは好対照であった。
ところが、そのA君が、入学したまではよいが、五月に入った頃、勉学に身が入らないばかりか、虚無に襲われ下宿に閉じ籠もっていると聞いていたが、何を思ったか、夏休みを待たずに早々と帰省してしまった。
休みが明けた頃、すっかり元気になって戻ってきたので、その理由を聞いてみた。
「同級生と会って、飲んで語らい、酔いに任せて皆で校歌を歌っていたら、翌朝、急に、スクナムイに登りたくなって、一人で登ってみた。頂上から佐敷の全景を眺めていたら、両親にしてもらったことが一つひとつよみがえってきた。そこで、父の恩と母の愛を感じ、不思議と胸が熱くなって、元気が出てきたさ―」と言うのである。
ふるさとの山はA君を内観に導いて、彼の心に癒しをもたらしたことになる。
消えたふるさとの山
A君の体験を聞いてからというもの、私のふるさと観が変わった。子供の頃に、近所の悪ガキ共と連れ立って、幾度となく探検し、慣れ親しんだスクナムイへの思いが強くなった。
そして、帰省の際には、前掲の歌を口ずさみつつ対面するようにまでなった。
正確な年月日は、失念してしまって思い出せないが、しばらく帰郷の機会がなく、久し振りに心踊らせてふるさとの山に向かったところ、「佐敷富士」と私が密かに名付けていたあのスクナムイが姿を消してしまっていたのである。
A君は激怒し、私は涙した。
日本列島改造論とやらが吹き荒れて、私の、小さいけれど大切な、ふるさとの山まで高度経済成長の波が呑んでしまったのだ、という。
山頂を削られて、ゴルフ場と化してしまった「スクナ」は癒す力を失ってしまった。
今は、ただ、私の心の中に育んできたスクナのイメージと対面するしかないが、それだけはどんなことがあっても消すまい、と思う。