わたしたちは与えるから受け
ゆるすからゆるされ
自分を捨てて死に
永遠の命をいただくのですから
マザー・テレサ
ちょうどひと月前の九月六日、マザー・テレサの逝去が新聞に報じられた。
その少し前に、立ち寄った小さな書店で偶然にも表題の傍点を付した本が目に入って、何となく求めてはみたが、開くことなく、そのまま本棚の隅でツン読にされ眠っていた。
それがマザーの死によって目を覚ました。
著者の沖守弘氏は写真家であるが、氏の写真集は「現代の目で見る聖書」だと評されておりその本でもマザー・テレサのあふれる愛が挿入写真を通して伝わってくる。
与えるから受け
「与える」という言葉は微妙である。先ず、類似語としてイメージされてくる言葉には、たとえば「恵む」「施す」といったような、上から下、富者から貧者への同情といったニュアンスがあって、一方的な感じさえする。
ところが、カメラが捕らえたマザー・テレサとシスターたちの姿には、息苦しさや堅苦しさは微塵もなく、質素で粗末な姿であるにもかかわらず、生き生きとして明るくその表情は至福に満たされ輝いて見えるから不思議である。マザーの言葉にいわく「今日の最大の病気は癩でも結核でもなく、自分はいてもいなくてもいい、だれもかまってくれない、みんなから見捨てられていると感じることである」と。
つまり、人間は自分が必要とされていると感じるとき、生きている実感を味わい、存在が輝くのだ、という。「孤児の家」や「死を待つ人の家」で栄養失調に苦しむ子、病気で死を待つ人々の世話に明け暮れるシスターたちこそ「与えることによって自分の存在を実感し、輝きを受けている」ことになり「与えるから受け」を享受させてもらっている人たちなのであろう。
貧しいことは美しい
貧しいことがなぜ美しいというのであろうか。カナダのバンクーバーで開催された国連人権居住会議でのマザーの講演内容を知るまでは、私にも理解できなかった。次がそれである。「私はある日、托鉢で得たわずかな米を、スラムに住むやせ衰えた主婦にわけあたえました。するとどうでしょう、彼女はそのわずかな米をさらに半分にわけて、裏の家に持っていったのです。私が 『あなたの家族は十人もいるのにそんなに少なくて大丈夫なの』ときくと、彼女はニッコリ笑って『でもあの人の家はもう何日も食べていないんです』と答えたのです。私が、貧しい人が美しい、という意味が少しはおわかりいただけたでしょうか」前述のマザーの言葉は、体験から導かれたものであり、十分、合点がいった。そして思ったことであるが、貧しい主婦の美しい行為は、マザーとの関係のなかで導かれたに違いない。
なぜならば、マザー自身が白地に青い縁取りのついたサリーとバケツ以外は一切の私物を持たず、わけ与える生活をしているからである。
内観に引き寄せて
周知のように、内観には「世話」と「返し」のテーマがある。別言すれば、「与える」ことと「受ける」こと、すなわち「ギブ・エンド・テイク」を他者との関係において調べてゆくわけであるが、マザー・テレサが言うように「与えることは受け」ることである、と実感したとき、内観者の洞察が深まり、喜びは膨らむように思われる。
吉本伊信は、生前、ことあるごとに日常内観を強調している。そして自らの日常生活は内観三昧のそれであり質素でありながら輝いていた。マザー・テレサを知って思ったことであるが、ひょっとして、吉本伊信のいう日常内観とは、吉本自身やマザーのような生き方のなかに示されているのではないだろうか。
「貧しいことは美しい」をマザー・テレサ同様に、吉本伊信も熟知していたに違いない。
インドの貧しい人々が、マザーから「あふれる愛」を引き出したように、この国では、「貧しくて、愛に飢えた」人たちのなかで、とりわけ少年刑務所の少年たちが内観を求めて、吉本に「与えるとは受け」を実感させてように思われるが、どうであろう。