ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく
石川啄木
身体が疲れたとき、休息が必要になる。
必ずしも温泉でなくとも、その時、適温の風呂などが用意されていれば、疲労の回復もいっそう促進されようし、十分な睡眠がもたらす回復効果は、誰しも経験済みであろう。
では、心が疲れたとき、その回復のためには何がよいというのであろうか。
掲出の啄木の歌には、そのことが示されているように思われる。
同窓会
もう何年になったであろうか、私は航空便にてふるさとで発刊されている新聞(琉球新報)を届けてもらって久しい。二~三日遅れの新聞を通して「ふるさとの訛」をなつかしんでいる。
その琉球新報に去年の暮に掲載されたコラムだったと記憶しているが、沖縄で生まれ育った本土在住のお年寄りたちが数十年ぶりの同窓会をふるさとで開いたという記事が目に入った。
歳が歳なのでほとんどが最後の同窓会になるかもしれない、という思いで出席したようであるが、なかには自力での歩行が困難であるだけでなく、寝たきりに近い人もいたという。戦争体験を共有してきた仲間に会いたくて、家族や周囲の助けを借りての出席になった。
仲間との再会に胸を躍らせ、ふるさとでのひとときをなつかしんだようであるが、本人たちの喜ぶ姿に立ち会った家族や周囲のことばが強く印象に残った。
「こんなに喜んだ姿は見たことがなかった。不機嫌でイライラの暗い毎日だったのが、ふるさとを訪ね、旧友と語らっただけで自力で歩くようになり、明るくなった」とのこと、「できれば毎年でも同窓会を開いて欲しい」と述べていたことばに胸を打たれた。
ふるさとにはこころを癒す力がある、と思った。
おそらく啄木であれば、そのことに深い共感を示すに違いない。都市の生活に疲れ果てたとき、「ふるさとの訛」を聴くことで癒され、寂しい心にエネルギーを注いで貰い、元気を回復した体験を持っているはずだから。
実を言うと、私のふるさと新聞にも似たような側面があり、「ふるさとの訛」を届けて貰うことによって、私自身の心にエネルギーが補充されてきた、と思っている。
ついでに言えば、新聞購読の意義を教えてくれたのは同窓の、建築家として活躍する竹馬の友・安田哲也君であった。ふるさとを共有する同窓の友によっても心は癒される。そして、過去によって現在が癒されるという発想は内観にもある。
内観の意義
ある実業家は自分自身が内観を体験し、これは従業員にも役立つと考え、内観費用に出張手当てまでつけて内観をさせている。その結果、定着率の悪かった職場に変化が見られ、業績も上向いたと聞いた。
では、内観は会社の業績向上に有意義だと言ってしまってよいのだろうか。
内観の意義を考える上で、ミヒャエル・エンデが遺した『エンデのメモ箱』のなかに紹介されたロシア人の人形使いのエピソードは参考になっておもしろい。今、手許にその本がないので、ちょっと前に読んだ記憶を辿ってあらすじを紹介すればこうである。
「そのロシア人は幾年も、ナチスの強制収容所に入れられていた。囚人は大人だけでなく子どももいたが、皆死刑になる運命であった。その人形使いは、練りジャガイモで人形を作り、最初は子どもたちに、次いで大人たちにも彼等自身の生い立ちを演じて見せた。子どもたちは笑みを浮かべた。そして、それだけでなく死をも演じて見せたところ、子どもも大人も自己への尊厳をよびおこし、死の運命はまぬがれなかったが、死への不安を乗り越え、やすらかになぐさめのなかで死んでいった」
内観によって、死を直視し、自分の運命を受け入れるとき、その人の生き方が変わってくる。
内観の意義を私はそう考えている。