前号では、読み切ってもらう「内観のはなし」にならず、読者にはメインディッシュを出し忘れたディナーのような読後感を味わわせてしまったようである。
親切な読者から「内観と吉本伊信のはなしはあれでおしまいなのですか?」という叱咤と激励の問い合わせをいただいたからである。
仕事にしている心理療法が関係のなかで深まってゆくことは、これまでの経験でわかっていたが、文筆を生業としない筆者にとって、書くこともまた、読者との関係で行われていたんだぁ、と身にしみて強く感じる体験となった。
おそらく、吉本伊信の内観も、それを期待する人々に支えられて深められていったに違いない、と思った。内観が他者との関係を通して、自己を発見しようとするのもうなずけよう。
そこで、今回ははなしの中心となる師の生い立ちをみてゆくことから始めたい。
◆生い立ち
吉本伊信は大正五(一九一六)年五月二五日に五人兄妹の三男として奈良県大和郡山市にて生れている。父、伊八は肥料商を営む一方、村会議員をつとめ、学校の父兄会の役も熱心に引き受けていたようである。伊信少年は勉強はよくできて、いつも級長をしていたが、運動は得意ではなかったらしく、「いつも運動会では足が遅く、小学校六年間、二等以上になったことはなく、いつも四等以下でした」と思い出を記している。
師の生い立ちで目を引くのは、対象への強い愛着と心を痛める別離体験を早い時期から味わってきたということである。
たとえば、一年生の担任の米沢先生は「少しも叱らず褒めて褒めて育てる先生」で「時計の読み方をちょっと知っていたといって発表したら大きな両手の掌で私の顔をくるくる丸めてお褒めくださった」らしく「入学早々このような立派な先生に受け持っていただけたことは全く幸運でした」と愛着を抱いたようである。その米沢先生が「一学期の四ヵ月は夢のうちに過ぎて夏休みが来た頃、このなつかしい先生が病気のため学校を辞められると聞いて悲しみました。郡山の柳町だとは耳にしても八歳の少年では行けそうにありませんし、夜中一人でシクシク泣いたこともありました」と親しんだ担任との別れを悲しんでいる。
大正一三年は小学校二年生である。五月一一日に弟が生まれ、翌日の一二日には四番目に誕生した一人娘の妹チエ子が数え年四歳で幼逝してしまった。可愛い盛りの娘を亡くした母親が悲しみを乗り越えるために、求道、聞法、読経勤行に打ち込む姿を伊信少年は傍らで見て育っている。この時の体験こそ「俺はさて何のために生まれて来たか?後生は大丈夫か?」を問う姿勢、すなわち内観に生涯をかけてゆく、という人生になったように思われる。
◆母親の影響
母親の影響は相当なもので「母は諸所の講習会やお説教に参って買ってきた宗教の本やパンフレットを『伊信さん、この本、済まんけど読んできかしてんけ』と頼むので、読み役の私は、おかげでいろんなことを知りました」というような間接的な仕方であったり、あるいは「母は珍しい食物が手に入ると、私を使者としてよく祖父の手元(母の実家)へ運ばせたもので『親には子はつねにこうあるべきだ』ということを、身をもって教えてくれた」らしく、そのうしろ姿に人間としての生き方を示したようである。
このように見てくると、内観が、母親を重視していることは師の生い立ちと深くかかわっているように思われる。
また、師が三歳の時、他界した祖母が口癖のように言って間かせてくれたことば、「信心の有るか無きかを知りたくばその日その日の日暮らしに問え」をことあるごとに話して聞かせたのも母であり、伊信少年の内面世界に与えた影響は計り知れないものがある。
このことも、内観法が母親を重視して成り立このことも、内観法が母親を重視して成り立っていることと関係があるように思われる。
内観の三項目である『世話』『返し』『迷惑』について吉本自身は商売上のやり取りからヒントを得た、とある日の座談会の席で語っていたが、そのなかの『世話』と『迷惑』は、ひょっとしたら母子関係を通して育まれた着想と言ってよいかも知れない。と言うのは、子どもにとって母親と言えば、やはり何と言っても「世話」をしてくれた存在として大きく、腕白坊主はもちろん、どんな子でも母親に迷惑をかけないで成長することはありえないからである。
ところで、『ユングの生涯』(河合隼雄)によると、「ユングは『自伝』の中で、彼の親について『私の母は私にはとてもよい母であった。彼女はゆたかな動物的あたたかさをもち、料理が上手で、人づき合いがよく、陽気だった。母はよく肥えていて聞き上手だった。彼女はまた話し好きでもあったが、その話しぶりは泉がざあざあと派手な音をたてているのに似ていた』と述べている」ようである。ユングの心理学は、フロイトのそれが父性原理によってできているのに対し、母性原理を重視しているのだという。
その理由を、先述の母親との関係に求めた論述がアンソニー・ストーによって試みられていることを河合が紹介している。
従って、吉本伊信の内観法とユングの心理学は、両方ともに母親(母性)の影響が指摘される点において、どこか共通したものがあるのかも知れない。
◆父親の影響
母性が重視されるとはいえ、父親の影響がなかったわけではないであろう。吉本伊信の父親は厳しくて頑固な人であったらしい。肥料商のかたわら「矢田山農園と称して三町歩ほどの柿を経営」していたようだが、家業のために息子を園芸学校へ転校させてしまったくらいの現実を重視する人であった、と言われている。
かつて、筆者は「信濃佛海」誌の中で師の眼について外界を見据える現実的な視線と内面に向かう視線が見事なバランスを保っていると称したことがあるが、その時、筆者としては母親だけでなく、父親の与えた影響にも注目すべきであると考えたからである。
既述したことであるが、父親は肥料商を営む一方で、無産党の村会議員をつとめており、現実的、実際的な生き方に優れていた、と思われる。師の中に培われた商道に成功を収めるような現実適応力は、まず、間違いなく父親の影響であろう。この父親の影響なしには、内観普及の展開は成しえなかったと筆者には思えるのだが、どうであろうか。
◆妻の影響
しばしば、男は自分の母親に似た女性を妻にする傾向があると言われるが、師もまた、おそらく母親似の妻を妾ったように思われる。
その妻について「三年生の夏休みは兄嫁の実家大和高田市土庫の森川さんへ長い間行きまして当時六歳であった兄嫁の姪で、今の妻キヌ子を初めて知り、一二年後に結ばれたわけです」と師自身が最初の出会いを述べている。
そして一三歳には恋心を自覚していたらしく「初恋としては少し早いかも知れませんが、夏休みに高田へ行くのが楽しみ」であったことを天真爛漫に語っている。
また、「好きな人に尊敬され、慕われる人になりたい一心で内観した」とも述べているが、ここには、人間関係における達人とでも言おうか、相手の期待や好みをキャッチして、それに応える能力とひたむきさを感じさせる。
死後、妻キヌ子に「伊信さんは菩薩やで」と語らせた師である。立派に妻の理想を生きたという意味でも、やはり師は、人間関係の達人であったことは間違いないであろう。
余談になるが、それにしても、死ぬまで、師を内観三味にした妻の魅力を思うとき、男の仕事を支える母性について、改めての凄さを感じてしまうのである。師を菩薩だとすれば、妻キヌ子は何と称すればよいのだろうか。
「そりゃあんた、わしゃ孫悟空で、手の平で内観のチンドン屋のようなことしかしてまへん。おっかちゃんはお釈迦さまだっせ」と幻の師の声が聞こえてきそうである。