「内観を通して経験してきたことを、心理臨床の立場から、一般の読者向けにわかりやすく書いて欲しい」という編集委員会の要請を受けたのは夏の頃であった。
これまでの、内観臨床の経験を整理してみるよい機会になるかも知れない、という思いもあって応諾はしたものの、師走の声を間近に聞く晩秋の朝、原稿締め切り日を当日に迎えたというのに、タイトルさえ浮かんでこないありさまに、筆者の心は苛立ちと溜め息が混声合唱である。
「タイトルも内容も自由に」と言われたときは何でも書けそうに思っていたのであるが、今はただただ怨めしい気持ちだけになってしまった。
混声合唱と怨めしさが交錯しているなかで思ったことであるが、今味わっている難産の苦しみは、およそ一九年も前になるが、初めての集中内観を吉本伊信師の許で体験したとき、いわゆる三日目の壁にぶち当って難儀したのに酷似している、と。
もし、師が内観に対象人物を設定する以前であったならば、あるいは今や内観の方法としてすっかり定着した三項目(貰・返・迷惑)が導入される前の“見調べ”によってであれば、おそらく私の内観(見調べ)は挫折していたに違いない、とさえ思った。
なんとか一週間やり遂げることができたのは、師によって改良された現在の方法に支えられたことが大きい、と思っている。 そこで、内観について語るならば、師のことから始めなければなるまい。
◆人と思想
一九九五年五月一三日のことであるがエリック・エリクソンが他界した。“アイデンティティー”という概念で有名な精神分析学者である。翌日の五月一四日の天声人語は早速、エリクソンについて取り上げている。彼の提唱した“アイデンティティー”という概念が彼の生い立ちと関連しているという説が述べられていて興味深く思われた。
部を引用して示すと、以下のようになる。
「ドイツ生まれだが、デンマーク人の両親は彼の誕生前に離婚していた。幼児に母親はユダヤ人の医師と結婚する。成人後、エリクソン氏は米国に移住、新しい環境で生活を始めた。社会的・思想的背景には、多分、たえず自分が何者なのかを考え続ける体験があったのに違いない」と。
このように、思想がその人の生い立ちと深く関わっているという見方は、決して不思議なことではなく、むしろ、自然なことと思われる。そうして考えると、内観について理解を深めようとすれば、吉本伊信師の生い立ちに注目せざるをえないであろう。
さらに、人の生い立ちは、やはり、何と言っても時代背景と切り離しては理解が深まらないように思われる。そこで吉本伊信師の生い立ちについて述べる前に、師が文字通りこの世に誕生した大正時代と宿善開発して生まれ変わった昭和初期を振り返ってみる必要があろう。
◆大正時代
日本史の中でもわずか一五年という短さではあるが、大正時代は、明治時代に興った富国強兵・殖産興業政策と相まって西洋の文化が盛んに取り入れられた時代であった。街にはモダンボーイやモダンガールが闊歩し、大正ロマンが花開いた時代である。師のアルバムの中には、下駄ばきで爪襟の学生服に身を包み、自宅の庭でバイオリンを弾く姿があるが、大正という時代精神に影響を受けた様子が感じられる。師の新進気鋭な精神は、おそらく幼少期から少年期にかけての大正文化の空気を吸って培われたものであろうか、内観普及のため、一般にはそれほど出回っていなかったというテープレコーダーをいちはやく購入して、録音したテープを全国各地に送った行動力には驚かされるものがある。話は前後するが、大正五(一九一六)年の五月二五日は伊信師誕生の日である。
当時の世相を新聞で辿ると、大隈内閣の「官業整理」と称して製材・製鉄および鉄道などを民間へ払い下げる決定に対して、経済の自由主義は国民に不利益を与えるとする非難の論調と並んで、大正三(一九一四)年から始まっている第一次大戦の戦況が伝えられている。大正時代に生まれたデモクラシーの思想と運動は大正一四(一九二五)年の末期に普通選挙法を勝ちとったことはよいが、同時に制定された治安維持法によってことごとく圧殺されるようになって、悲運がたちこめる昭和に時代は移っていくのである。
◆昭和初期
吉本伊信師が奈良県立郡山中学校へ進学したのは昭和四(一九二九)年のことであり、当時、十四才であった。その年の十月には世界恐慌が襲い、翌年の十月には農作物の生産過剰によってもたらされる農業恐慌が襲って、農民が貧窮、没落していった。そのことと直接の関係があるのかどうか、その年に伊信師の父、伊八氏は息子を県立園芸学校に転校させている。新学校から格下の学校への転校であったが、師は「一切の不服も述べず素直に従った。それまで一度も親に逆らうことはなかった」(キヌ子夫人談)。
ところが、あの孝行息子が法を求めての「見調べ」に反対されたときだけは例外であった。父の目を盗んで、嘘までついて、家出をしたのである。その見調べであるが、昭和一一(一九三六)年、一一月八日、二一才のとき、将来の妻の自宅、森川家においてその師、駒谷諦信氏が側近の弟子を従えて初めての指導にやってきたという。ところが、三日とももたず挫折してしまう。二回目は同年の一一月二二日に、今度は布施諦観庵にて行うが、やはり六日目に挫折。三度目は意を決して、家人にも内緒で矢田山中の洞窟(マンガン試掘抗跡)にて不眠不休飲まず食わずの単独の見調べを試みるが、身体衰弱で四日目の朝に洞窟から出てきたところを、捜索にきた村人に発見されている。ときは昭和一二(一九三七)年一月五日から八日のことである。天迷開悟に至らず、やむなく下山している。世の中は次第に軍国調となり、その年の暮れ一二月七日には日華事変が起こっている。そのひと月前の一一月八日に伊信師は四回目の見調べに入っている。三日目の挫折から約一年弱の時を経て、その間に結婚もしていた。ようやく機が熟したのか、一一月一二日午後八時、ついに宿善開発を果たしたのである。
その日の夕刊には「消えるデパートの年末大売り出し」と並んで「年賀状、新年宴会も中止」の小見出しが読める。時局は戦争へ向けて流れていた頃である。心理学会もその波に巻き込まれて例外ではなく、別紙の夕刊には「勤労後こそ精神力は緊張―早大両教授が興味ある発表」との見出しのもとに、内田勇三郎・戸川行男両教授の研究が写真入りで紹介されている。記事の一部を引用すると「去る八月焼けつくような真夏の炎天下、戸川教授は早大生七人を引率して午前七時ごろから早稲田を出発、新宿、吉祥寺、三鷹、駒場、目黒を経て午後五時ごろ帰校、十里の行軍を七時間半で決行した、帰校後、直ちに待機していた内田教授は全学生に対して寄せ算の単純な仕事を三十分間にわたって課したところ、相当疲労しているにもかかわらず、かえってスピードも経過もよく、能率がグンと上がったという意外な結果が出た。これによって朝起きてからダラダラと仕事にとりかかるより、キチンと体操なり軽い労働をした後、仕事を始めるほうがずっと能率の上がることが科学的に実証されたわけで、銃後の体位向上、精神総動員の上に大きな示唆を与えるものと注目されている」とある。心理学的価値はともかく、国家総動員に向けての一コマを見る思いがする。そうした世情にあって、ひたすら自分の内面世界に目を向けて「見調べ」に命を賭けた一人の男がいたことに注目したくなるのである。