上海・蘇州・杭州を訪ねて

真栄城輝明(大和内観研修所)



 はじめに

 平成17年11月8日から17日まで上海・蘇州・杭州を訪ねた。

 上海精神衛生中心が主催した内観療法が学会へ出席した後、アジア心理衛生学会のシンポジウムに参加したわけであるが、その合間を縫って蘇州大学院や杭州の単科大学(3年制)に招かれた。ワークショップは上海精神衛生中心を、二つの学会はそれぞれ別のホテルを会場にして開催された。講演の内容こそ違ってはいたが、私に与えられたテーマには、「内観療法」が共通して入っていた。

 とりわけ、最初の内観療法ワークショップは15分の休憩を挟んで、3時間という長時間が組まれていた。講演に2時間。残った時間を質疑にあてられた。質問をもらって私は八事時代の分散記録内観やひがし春日井で実践してきた集中内観などを紹介した。


 ワークショップでの質問

 周知のように、中国は目下、経済の高度成長期である。そしてお決まりのように、アルコールや薬物依存症が急増しているという。その結果、犯罪者となって医療刑務所に入所してくる人も少なくないようだ。今回のワークショップにも刑務所に勤める精神科医の参加が目立っていた。したがって一番熱心に質問してきたのも彼らであった。いくつかの質問に答えているうちに私の八事病院時代のことがいろいろと思い出された。

 たとえば、「屏風ってどういうものですか?それがないと内観療法は出来ませんか?」という質問を受けたとき、私はつい、屏風の機能とその歴史から話し始めたのである。

 「屏風は文字通り『風を防ぐ』調度でした。しかもそれは、お国の周の時代に誕生したのです。韓国を経由して日本には伝わりました。天武天皇の朱鳥元年の4月、新羅から送られたのが最初でした。風を防ぐのは壁ですが、屏風には、壁の持つ『防ぐ』『もたれる』『遮る』『囲う』『仕切る』『飾る』という機能だけでなく、実用的、装飾的レベルで多機能に用いられているのが特徴です。そして、何と言っても壁は動かせないが、屏風は自由自在に可変可動なのが魅力です。」とそこまで話したとき、若い熱心な精神科医がこう訊いてきたのである。

 「今の中国の病院では、屏風のようなものはありません。日本ではどうですか?先生が病院の中で屏風を採用されたとき、苦労はありませんでしたか?」

 そう訊かれて、私は八事時代の屏風にまつわるエピソードを思い出した。


 八事時代の屏風の思い出

 八事病院のアルコール治療が導入されることになったとき、私がそれを担当することになった。集中内観の導入も一応話題にはなったが、それは到底無理だということで、分散内観を導入することになった。始めのころは、夕方の病棟で、診察室を一時間だけ提供してもらった。診察室の床に新聞紙を敷いて壁に向かって座るのである。しかし、夏はともかく、冬は下半身が冷えて内観どころではなかった。しかも、屏風があるわけでもなく、狭い診察室に数人も座れば触れ合うほど込み合って、たいてい隣同士でおしゃべりが始まってしまうのが落ちであった。

 そこで、毎日1時間という限定で内観室を畳のある病室に移し、屏風を作ってもらうことにした。

 ところが、屏風を作る段になって看護スタッフからクレームがついたのである。

 「たとえ屏風とは言っても、アル中さんたちを一人で看護者の目が届かないところにおくと何をするか分からないので心配です。」

 精神病院ではアルコール依存症に対する不信感は相当なものがある。八事の看護者も例外ではなかった。看護者の声を無視するわけにもいかず、妥協の産物として背丈の低い屏風が作られた。廊下を巡視の看護者が屏風の中に座っている人の頭が見えるようにしたのである。そういうわけで、八事の屏風は普通の屏風に比べて背丈が低くなっているはずである。そんな背の低い屏風ではあったが、その効果は目を見張るものがあった。まず、おしゃべりが消えたし、屏風に守られて落ち着いて内観に取り組むようになった。(今でも背の低い屏風を使っているのだろうか?それとも病院の建物も新しくなったので、屏風も新調されたのだろうか?機会があれば、是非、拝見してみたいと思っている。)

 さて、上海でのスケジュールは過密であったが、その過密の合間を縫って、蘇州大学へ伺った。心理学科の大学院生を対象に2時間半の講演をしてきたが、ここに蘇州大での詳細を記す紙幅の余裕はない。ただ、一つだけ述べるならば、上海から車で1時間余の蘇州の景色も近代ビルが増えていた。環境汚染も含め今後の中国の行く末が案じられた。

 上海の都市化現象は、異常なスピードだ。止む気配はない。そして、それは今や蘇州にまで広がりつつあると見た。都会はそれだけでストレスだ。次のアジア精神衛生大会までに二日間の空きが出来たので、杭州へ休息をかねた小旅行を思いついた。杭州にいる古い友人夫妻が、学会の懇親会が行われているホテルまで自家用車で迎えに来てくれた。友人は上海から杭州まで片道約百五十キロの距離を往復してくれた。中国人の客人への最大のもてなしが送迎だという。私は、恐縮しつつ、友人の好意に甘えた。到着したとき、夜の十時をまわっていた。空気は澄んで、道路の左右に翼を広げた白樺並木に安らぎを覚えた。かつて、アメリカのニクソン元大統領を感激させたという西湖とその周辺の緑は、いまなお健在のようだ。この緑の中で、ゆったりと散策しながら森林沼を楽しむはずであった。

 ところが、そこに暮らす知己の中国人家族から夕食に招待されて歓談しているうちに事情が一変した。友人が教鞭をとっている単科大学にて、急遽、特別授業を行うことになったのである。

 「クラスの優秀な生徒たちは、いま日本で研修中なのですが、残っている3分の1の学生は劣等感が強く、学習意欲も沸かず、授業中居眠りする子が多く、教師として困っています。彼らが自信を持ち、前向きになるような話をして欲しいのです。」  担任でもある友人の要請を断るわけにもいかず引き受けることにした。日本語学科の教室の教壇に立った私は、講じるのを控えて、学生たちの話を聴くことから始めた。話すよりも聞くことが私の本職だから。そして、進路に迷い、生きる意欲さえ失いかけている学生たちの話を聴いて驚いた。

 「金持ちにはなったが、父親の酒量が増え、両親の喧嘩が絶えない。」というのである。中国の繁栄の陰は、なんと杭州にまで広がっていたのである。


 
(本文は、八事病院断酒のつどい同窓会文集から転載しました)