我が輩は大和内観研修所である


 これまでに名称を変えること4度。

 はじめの昭和28年に、大阪の天下茶屋から奈良の大和郡山市に移ってきたばかりには「内観道場」と呼ばれていた。

 なぜ「道場」と称したのか定かではない。

 ただ、大和郡山といえば、豊臣秀吉の弟君・秀長公によって築城された郡山城の城下町として栄えた土地柄。今でも町角から帯刀した武士が姿を現しそうな気配が漂う。

 たとえば、その城跡に設立された文武両道を校風とする郡山高校は、吉本伊信が入学した旧制郡山中学校時代から現在に至るまで、県内では常に他を寄せ付けない人気を誇り、校訓に「誠実・剛毅・雄大」を掲げ、その影響力たるや城下町全体を包んできたことは疑えない。

 この地の外堀近くに住んでみると、吉本伊信が我が輩に「内観道場」と命名した気持がわかる気がして不思議である。

 ところが、我が輩の名が「内観道場」から「内観教育研修所」に改称された。昭和32年のことである。

 どうしてまた我が輩の名に「教育」という2文字を入れたのか。その訳はこうである。

 昭和29年、第一歩を踏み入れた奈良少年刑務所での内観が島倉千代子さんとのご縁も手伝って大きな反響を呼び、マスコミ等でも取り上げるようになり、飛躍的な展開を見せたからである。矯正教育界への手応えが吉本伊信に「教育」という2文字を採用させた、という次第。

 それなのに昭和46年にはせっかく入れた「教育」が割愛され、「内観研修所」が誕生している。

 これにも理由がある。

 昭和39年に信州大学の竹内硬教授が内観を体験。その後、昭和43年に師は岡山大学医学部に招かれて講演するなど、医学・心理学の世界に内観が拡がって行ったからである。つまり、「教育」に限定しない名称になって内観がさらに発展することになったのは周知の通りである。

 さらに時代が変わって、平成14年1月に我が輩は新生した。

 そして、翌年の平成15年の1月、名称に「大和」を冠することになったいきさつは、本誌の78号に述べたのでここには繰り返さない。




  本文はやすら樹第83号(2004年1月発行)に掲載されたものです。



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