大和の内観と西洋の心理療法

大和内観研修所  真栄城 輝明



 2000年4月に赴任以来、内外から当研修所の名称をめぐって、いろいろなご意見が寄せられた。

 そこで、新築されて1周年を迎えたのを機に、上のように改称した。

 それにしても、改称に3年近くも要したのには訳がある。

 「内観発祥の地にふさわしい名称を」という声にどう応えるか、苦慮したからである。

 1953年、吉本伊信は当地、大和郡山に内観道場を開設し、内観の普及に生涯を捧げた。周知のように、「大和」は「倭」と書いて奈良を称するだけでなく、たとえば、沖縄では日本本土を指して今でもそう呼んでいるし、唐の時代から日本国の異称でもあった。

 そして同時に、「大和」は大和郡山の大和なのである。

 「西洋の劇では何かが行われるが、日本の能には何ものかが顕れる」1991年3月、日本ユングクラブ東海支部の発会式が行われた際に、記念講演のなかで上智大学名誉教授のトマス・インモーン氏によって語られた言葉である。

 そこで、西洋の心理療法と大和の内観についても同様なことが言えそうに思った。

 たとえば、西洋医学の舞台として機能している病院でクライエントに出会うとき、セラピストには「治療を施す専門家」という役割が期待されるが、大和文化を舞台とする内観では、面接者が黒子のような存在に感じられるからである。

そして、いま少し説明を補えば、西洋文化のセラピストはクライエントのアセスメント(診断)やセラピー(治療)に積極的で能動的に関わることにもなるが、内観の面接者はあくまでも内観者に付いてゆく姿勢を保ち、静かで受動的に振る舞う。

 もう随分前のことである。ある日、ひとりの医療職の方が内観に来られた。自分の担当する患者さんを紹介するに当たって、まず、自分自身が体験しておこう、と言うので6泊7日の集中内観が始まった。

 内観室はトイレこそ洋式であったが、西窓で6畳の和室になっていた。

 そのひとは苦労人であった。終戦前後の混乱した時代に生を受けたというそのひとに、母親はいない。母親は、産後にそのまま息を引き取ったが、自分の命と引き替えに我が子をこの世に送り込んでいた。

 幼少時に、親戚の間を転々と預けられたこともあって、確かに内観の対象人物は多かった。けれども、肝腎の母に対する自分を調べることは不可能に思われた。母を知らず、記憶にないからである。

 それで、本人も面接者も敢えて母親には触れずに5日目の夕方を迎えていた。

 ちょうど、夕陽が沈む瞬間のことである。屏風の中が一瞬明るくなったと思ったら、そこに母親の姿が顕れたのだと言う。寒くてしかも晴れた日という条件下で、夕陽が沈む瞬間、屏風の中が輝くばかりに明るくなる現象は、これまでも何人かの内観者によって報告されていた。

 まさに、自然のなせる業なのであるが、その自然の計らいで一度も逢ったことのない母親と対面したのである。「絵は苦手ですけど今見た母を遺したい」と涙を浮かべつつ、描いた母像は満面に笑みを湛えていた。

 それから後日のこと、担当する患者さんに内観を受けさせるために付き添って来られたときのことであるが、「内観中に母が顕れてくれたお陰で、あの日以来、何となく気持ちが安らいで、仕事にも張り合いを感じています」と語る目元の表情が、あの絵にそっくりなので驚いてしまった。きっと瓜二つの親子だったに違いない。

 それにしても「能」のように「内観」にも何ものかが顕れやすいのだろうか。




 (本文はやすら樹第78号より転載したものです。)




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