内観をめぐるはなし 第4回

内観と新聞記事


 適応例

 数年前、中国の上海第二医科大学の王祖承教授(精神医学)が来日したときのことである。王教授と高弟の方医師を、大阪内観研修所の榛木氏と大和郡山にある内観研修所へ案内する車中での会話が印象に残った。

 お二人とも内観を中国に導入しようと熱心になっていた折りのことであり、いきおい話題は内観をめぐるはなしに集中した。

 「ところで、内観を導入するとき、どういった症例に最も効果がありますか」と流暢な日本語で王教授は訊いてきた。私が自験例や内観学会の論文集などを思い浮かべながら、適応例についてほとしきりの説明をし終えたところに、何やらカバンから取り出して、「それでは、この人はどうですか」と言って開いたのは中国から持参したとおぼしき新聞であった。

 上海で発行されているその新聞の三面記事には、最近発生した中国での事件が報じられていた。

 「遊ぶ金欲しさに他人の家に泥棒に入って捕まった人」や「愛情問題のもつれから妻を刺傷して逮捕された人」に内観を導入して効果はあるだろうか、という質問であった。

  日本の臨床家同士が適応症について論じれば、せいぜい臨床例のことしか視野には入れないものだが、流石に大陸の発想は広大無辺とでもいうか、新聞紙上に登場する人が対象にされていることにスケールの大きさを感じ、驚いた。

 そのときを境に、私の新聞の読み方が変わった。三面記事はもとより、事件の大小を問わず、新聞紙上に内観の適応例を探しながら読むようになったのである。


 学校の事件

 子どもたちのいじめや不登校の問題だけでなく、教師の不祥事が新聞紙上にとりあげられることは最近では珍しくない。

 五月二八日の朝日の朝刊に「弱った子ウサギ生き埋め」という見出しが目に入った。埼玉県大宮市にある小学校で起こった出来事である。

 記事を要約して紹介すれば、こうである。

 「五、六年生でつくる『動物飼育委員会』の担当になった二三歳の男性教師が、飼育小屋で生まれて間もない子ウサギを児童の前で校庭で生き埋めにして死なせた」という。「生まれたばかりのウサギを見るのは初めてで育て方もわからない上、授業が始まるまでに児童を教室に戻さなければと、とっさに考えてやった」と、くだんの青年教師は弁解したらしい。

 そして、飼育小屋で子ウサギが弱っているのを見つけた児童には「まだ息があるが、このままにしておくと七面鳥にやられてしまう。かわいそうでも埋めてあげた方がいい」と説明したようであるが、子どもたちは相当な衝撃を受け、動揺を隠せなかった。保護者の抗議で学校が事情聴取を行ってはじめて前述のことが判明しているが、「児童の気持ちを傷つけたことは申し訳ない」という教師のことばには、記事に読む限り、悔恨の深見は感じられず、表層的で形式的な謝罪以上のものは伝わってこなかった。

 教師として、人間として何かが足りないと思った。その教師に内観を勧めてみたいと思ったが、果して内観は効果あるのだろうか。


 共感性

 心理療法全般に言えることであるが、内観にとって必要不可欠なのは共感性であろう。共感性とは自分以外の他者の身になって相手と同じ気持ち(感情・考え)になれる能力であるが、知識偏重の教育にあってはそれを育てることが難しい。次のエピソードは、カウンセリングの中でクライエントに聞いたはなしである。

 「雨の日の公園での出来事。生れて間もない子猫が段ボール箱に捨てられて、泣いていた。

 そこへ二、三歳の子を連れた若い母親が通りかかった。『あ、子猫がいる』と言って親子は箱の中を覗き込んで『一匹、二匹、三匹…』と数えたあと、『ハイ、よく数えられたね、帰ったらご褒美におやつをあげましょうね』と言うなり、子どもの手を引いて去って行った」

 恐らく先例の青年教師を育てた母親も、子ウサギや子猫の気持ちに共感することよりも、数を数えられること、すなわち知識偏重の教育ママであったのではあるまいか。このような時世にあって、相手の立場に共感する内観マインドこそ教育の場に必要と思われるのだが…。