内観をめぐるはなし 第10回

内観療法における夢


 内観療法、とりわけ集中内観療法が備えている治療構造には、独特なものがある。カウンセリングを続けてきたクライエントに集中内観療法を導入することは、内観に精通した心理療法家であれば何も珍しいことではない。

 カウンセリングなど他の心理療法の場合は、大方が一週間に一度か二度来談して、限られた一定の時間に面接を受け、それが済むと日常生活に戻ってゆく。それに対して集中内観では、一週間の間、ずっと非日常の世界に籠って継続的な面接が繰り返されるのである。

 換言すれば、カウンセリングは、たとえ夢を扱うにしろ、昼間に行われることが多いが、集中内観は昼間はもとよりであるが、朝から夜の世界に及んで、徹底した面接に特徴がある。


 内観と夜

 この、ちょうど川の流れのように、連綿と続けられる内的作業は、ちょっと他の心理療法では味わえないものがある。

 そこで、毎日の生活を考えてみればすぐにわかることであるが、われわれ人間にとって「夜」は、休息や睡眠をもたらすという意味において「癒す」働きを持っていると言われている。深刻な悩みを抱えていた人が、ぐっすり眠った次の朝には、嘘のように気が晴れてしまう事ことがあるのは、「夜」のもつ「癒す」力を示していよう。集中内観が、この「夜」を包含していることの意義は、殊のほか大きいように思われる。

 そして「夜」が産み出すイメージ作品と言えば「夢」が挙げられる。従って、集中内観の、朝一番の面接で昨夜の「夢」が語られることは不自然なことではないだろう。

 私の印象では、心的内容は一種の流れがあり、内観中の夢を聞いてみると、隠喩(メタファー)として語りかけてくるものがある。


 内観と夢

 『古代人と夢』(平凡社選書)を著した西郷信綱氏によれば、われわれの祖先は、たとえば、古事記や今昔物語、あるいは日本書紀などに見るように、夢との関わりがきわめて密接であったという。夢を通して神仏のお告げを聞き、運命を占い、さらには、「王位を継ぐべきものを夢見で決めている」と述べている。

 「或時ニ、七日七夜出デ給ハズ。戸ヲ閉ヂテ、音ヲモ聞カズ。諸ノ人、此ヲ怪シム。ソノ時ニ、高麗ノ恵慈法師ト云フ人ノ云ワク、『太子ハ是レ、三昧定ニ入リ給ヘル也。驚カシ奉ル事ナカレ』。八日ト云フ朝ニ出デ給ヘリ」

 これは、西郷の紹介する今昔物語の一節であるが、仏道修行の三昧堂として建てられた法隆寺の夢殿に聖徳太子が七日間こもって、八日目に出てきたという話がおもしろい。この件からは、集中内観が連想されよう。というのも、その間の夢見が仏道修行のようだということなので、内観が見調べから発展してきたことを思えば、きわめて酷似する話ではないだろうか。

 そうして考えると、内観にしても夢見にしても世間から隔絶された、非日常の世界に籠って行うところに意味があるように思われる。


 夢が語るもの

 私の内観臨床の経験から言えば、「夢」は分析されるためではなく、内観者の内面が語られるために必要であり、それだけで十分意義があると考えている。

 たとえば、内観最終日に中年の男性が見た夢は「便意を催してトイレを探すが、洋式のそれは便座が壊れていたり、ドアがなかったりで、思うように用が足せない。見かけは古いが、やっと入ったトイレは和式であった。洋式と違って、腹圧がかかり便が出やすい。ようやく落ち着いて溜まりに溜まった便が出せた。ほんとうにすっきりした」という内容であった。

 内観中に号泣した後、男性曰く「日常生活はもちろん、精神分析や催眠療法を長年受けてきて、一度も泣けることはありませんでした」と。

 夢が語るものとはそういうことなのである。